そもそも、なぜ社会に理解されないといけないのか?
ギフテッドや2Eって、認知されるようになったのは比較的最近で、主として子どもに対する目線で使われていますよね。
子どものうちは保護者など周囲が理解してあげられますが、大人になって自立するタイミングが来ると、大きな困難になります。紙の上で大人になったからといって、生まれ持った特性が根本から再構成されるわけではないのに、大人を対象とした活動はほぼないと言っても過言ではありません。
ただ、私たちは大人になっても子ども時代のような支援や理解を求め続ける、というスタンスではありません。自分たちで楽しめる居場所を作り出し、社会の中でサバイブする実行力を志向する。そういうスタンスです。
それに何より、2Eへの理解を社会に求めていくこと自体が、実は2E本人には苦痛だったりします。理解してほしい気持ちはありつつ、あまりにもマイノリティなので、自分たちのために社会に視点を押し付けるのも違う。もっと言えば、少し理解を進めるためにも膨大な労力と時間が失われるだろう、ということが感覚的にわかるので、当人としては気が進まない。そういう感覚があるんだと思います。この感覚は、社会との折り合いを見つけようと頑張っている当事者ほど、強く認識させられます。
ここで、冒頭の問いに戻ります。
そもそも、なぜ社会に理解されないといけないのか?
社会は2Eに対して、コンテンツとしてはすこーしだけ興味がありますが、現実問題ぶっちゃけ興味がない。つまり、わかろうと思うことすら少ないと思います。インセンティブが少なすぎるので、これは普通のことです。
そしてその状態で、
「社会のほんの少しの人たちの、あなたには絶対に理解されないかもしれない苦悩をわかってください!」
と説明しても、
「正直、鬱陶しいだけだろうな(笑)」
と、私たちは率直に感じています。相手に真に理解してほしいとき、何かを押し付ける(つもりはないんだけど、冗長になって、一方通行でボールを投げ続ける形に陥りやすいと思う)のは、あまり美しくない。求めるべきは社会ではなく、我々そのものの在り方なんじゃないか?と感じています。
実際問題、ギフテッドや2Eの説明に多用されるIQの値についても、私たちは疑問を持っています。
まず、IQという借り物を使わないと説明できない時点で、社会に対して親和性が低い。さらに言えば、IQが高いこと自体に、真の意味での価値を見出していません。
身長にはcmという絶対の目盛りがあって、パーセンタイルはその上に乗った派生値です。IQには、その元の目盛りがありません。素点は、集団に対する位置として定義されて初めてIQになる。つまりIQは、構造として相対値しか持たない。だから「美味しい」のように誰でも直接感じ取れる量ではなく、人間が後から発明した「概念」なんです(「美味しい」は誰でもすぐわかりますよね?)。
もっと言えば、IQの測り方自体も、ほとんど(特にパターン認識など)が与えられた情報と選択肢の中で思考するものです。作曲や料理、絵画やアイデア力といったものは評価できません。
率直に言って、<IQ=知能の絶対指標>という大きくなってしまった社会認識に対して、力不足です。
誤解のないように言っておくと、IQが無意味だとは思っていません。傾向を知る道具としては、ちゃんと信用しています。ただ、それ以上のものではない。方位磁針のようなもので、いまどの方角を向いているかはわかるけれど、地形までは描けない。地形は別の道具で、自分の目で見るしかない。道具を疑いながら道具を使うのは矛盾していますが、一つの視点で現象を説明しきれない以上、それでいいと思っています。
そんなイマイチよくわからない(私たちもかなり限定的な指標だと捉えています)IQなるものを、広く思考停止で扱っている。その状態で「IQ上位2%だから〇〇」と説明されても、
「何か言ってるようで、何も言ってなくない?」
と思ってしまいます。
統計的に測れる範囲では正の相関があるんだと思います。でも人間は、「統計的に正の状態です」と言われるよりも、「あ、これ美味しい」みたいな絶対的な感覚認知の方が、かなり支配的です。
余談
正論と感情にも、似たことが言えます。どんなに的を射た正論だろうと、相手の感情を気持ちよくさせなければ、相手は簡単には正論を飲み込めません。まず最初に、相手を気持ちよくさせる必要がある。逆に、最初に気持ちよくさせてしまえば、不正確な内容でも受け入れてしまいがちです。人間は思った以上に感情で成り立っているんです。ちなみにこれは、人生に深みをもたらす、愛すべき素晴らしい特性だと思います。
話を戻すと、この「高IQ」という概念を、与えられたまま受け売りで使っている。さらに、ギフテッドや2Eを語る際に、一種のラベリングとして使っている。
もっと言えば、
「高IQだから自分はすごいんだ」
「高IQで生きづらさを感じる」
という論調は、わかっているようで、自分自身では現象を理解していないと思います。与えられたラベリングを使って、わかりやすく自分を納得させ、保とうとしているのかもしれません。
高IQというのは状態でしかなくて、「それを持って何をしたいのか?」がなく、高IQであることそれ自体に満足(根底の解像度が荒いまま扱っている)してしまっている。だから、高IQであることそのものが無形資産のように扱われはじめて、高IQを目指したり、高IQであることがアイデンティティそのものにすり替わったりしてしまっています。
例えば、とある欧州の高級ブランドは、最初は地元のクラフトマンシップから始まったものの、途中でブランドネーム自体に価値がつきはじめ、グローバル展開を経た現在の実情は、クラフトマンシップではなく、工場の生産ライン管理による流通量を軸にしたブランディングになっています。しかし人々はブランドを盲目的に捉え、解像度を上げようとはしません。
ブランドを持っている、自分。
高IQである、自分。
この語感は、近似していると思います。
両者とも実像に対して低解像度で、自身の価値判断基準を見出せていない。これが悪いことだとは思いません。社会の価値判断基準を取り入れている、とも見られます。
ただ私たちは、自分自身が「状態」であることに満足できず、空虚さと退屈感、脱力感を感じています。だから、状態という統計的な正の相関から自分たちで脱却して、「これ面白い!」とみんながわかり、互いの人生を彩れるものを創造したいと考えています。
π円で入会にあたってIQの値を必須にしていないのは、そのためです。知的かどうかは、面談の過程で自然にわかります。そして我々は「知的かどうか」それ単体に価値を感じていません。その知性で、どんな面白いアイデアを考えているのか? どんな視点で物事を捉えて、それをどんな面白いものに作り上げるのか? それを測るのではなく、知って、一緒に面白くしてみたいと思っています。私たちはあなたを測ったりしません。ただ純粋に、味覚や嗅覚のように、本能的に知覚で感じ取ります。
と、ここまで書いたところで、大きなパラドックスがあります。
「え? じゃあなんで、コミュニティの触れ込みが<ギフテッド2E当事者のコミュニティ>なの?」
という(笑)
「まず、IQという借り物を使わないと説明できない時点で、社会に対して親和性が低い。」
——ここを読んだ時点でモヤモヤしたなら、鋭いセンスです😎
なんで私たちがギフテッド2Eという触れ込みを使うかというと、めっちゃ言いづらいんですけど、求めている人物のマス層に効果的だからです。ちょっとマーケティング的な視点ですよね。
さっきの正論と感情の話もそうですが、順序の問題です。最初からいきなりピンポイントで人物を探すのはナンセンスで、あたりのある属性を明示するのが効果的です。私たちはギフテッド2Eという概念を、ラベリングとして、統計的に扱います。でも、あなたと向き合うとき、あなたを統計的に捉えようとは思っていません。扱う順序を変えただけで、同じ事象でも、「囚える」か「捉える」かに振る舞いが変わります。
ちなみに、ここまで読み進む過程で、結構認知負荷がかかったんではないでしょうか? 最後はリラックスして考えてください。
まとめると、
「ハイスペックPCがせっかくあるなら、スペックを最大限まで攻めたくない?(笑) どう? なんかやってみたくない?」
最後に
↑ところで、今見返して思いましたが、この論はよくできてるように見えて、ちょっと危ういなぁ〜(笑)
あなたはどう思う??
批判だけだと咀嚼のインセンティブがないのですが……代わりに一緒に楽しく考え、面白いアイデアを形にしませんか?
なんにせよ、面白そうと思って面談に来る後押しになったら幸いです。